「願いを込めて汗を流す」伊藤寛子さん(北1)
自分の食べるものを出来るだけ自給したいと始めた畑作りは今年で12年になる。土を起こし、種を蒔き、水をあげ、草を取る。その単純な繰り返しの中に命の営みがあり、感動がある。小さな生命は無限に存在し、それはとても強く逞しく、まるで宇宙の如く神秘的で、それでいてシンプルだ。「人間が育てる」などというのも、実はとてもおこがましい考えなのだろうなと思いながら、そのことをふまえた上で大切に育てる。
私の「自給をしたい」というその思いをより一層強くしたのは、6年前の原発事故だ。文明が発達し科学は進歩したけれど、命を繋いでいくという所謂(いわゆる)「神の領域」的な部分にまで人間は手を出し、結果、汚した。原発事故の甚大さと被爆の危険性を伝え、避難者を受け入れることに奔走した。そして考えた。事実にきちんと目を向け、命と向き合い、もっと生きることに謙虚に、土に触れ、はいつくばって汗を流すことだ、と。まず、自分がそうすることだ、と。それが、この自然界を汚してしまった一人の人間としての責任だ、と。次の命を繋いでいく為にやるべき大人としての義務だ、と。
生きることは食べること。命をいただくことで命は繋がれていく。そんな当たり前のことを忘れてしまうほど日常に追われてしまうけれど、身のまわりの小さな命たちは、そんな私にいつも優しく、時に厳しく、大切なことを教えてくれる。その声を聞き逃さぬよう、今年も汗を流そうと思う。そこから「暮らしの在り方」が作られていくのだと思うし、仕事は勿論、すべてに通じていくものだと信じている。そしていつか、どこかの誰かに繋がっていくことを願って。
(2017年4月号・広報とうま掲載文より・第119回エッセー)
私の「自給をしたい」というその思いをより一層強くしたのは、6年前の原発事故だ。文明が発達し科学は進歩したけれど、命を繋いでいくという所謂(いわゆる)「神の領域」的な部分にまで人間は手を出し、結果、汚した。原発事故の甚大さと被爆の危険性を伝え、避難者を受け入れることに奔走した。そして考えた。事実にきちんと目を向け、命と向き合い、もっと生きることに謙虚に、土に触れ、はいつくばって汗を流すことだ、と。まず、自分がそうすることだ、と。それが、この自然界を汚してしまった一人の人間としての責任だ、と。次の命を繋いでいく為にやるべき大人としての義務だ、と。
生きることは食べること。命をいただくことで命は繋がれていく。そんな当たり前のことを忘れてしまうほど日常に追われてしまうけれど、身のまわりの小さな命たちは、そんな私にいつも優しく、時に厳しく、大切なことを教えてくれる。その声を聞き逃さぬよう、今年も汗を流そうと思う。そこから「暮らしの在り方」が作られていくのだと思うし、仕事は勿論、すべてに通じていくものだと信じている。そしていつか、どこかの誰かに繋がっていくことを願って。
(2017年4月号・広報とうま掲載文より・第119回エッセー)