「昔の思い出」宮﨑義夫さん(伊2)
昭和34年春、農協から測量の手伝いを頼まれたのが、職員となる第一歩でした。当時の農協で土地改良事業を進めており食糧増産時代もあって客土事業、暗渠排水事業、造田事業が盛んに行われていた。
特に造田事業が山間地帯を中心にブルトーザーが20台くらい入り、積極的に進められていた。その中で一番の思い出は、山間地帯の測量中に、熊に出会ったことでした。あまりの驚きに足が震え、逃げることもできませんでしたが熊も各方面から追われており熊の方から逃げて行きました。この出来事が頭から離れません。秋は暗渠排水事業、冬は馬そり客土事業など、当麻町内の各地区の水田を飛び回っておりました。
昭和45年8月には、集中豪雨による激甚災害が発生、旧役場庁舎の前にあった娯楽館に役場の土木課、農協の土地改良係が集まり災害復旧事業を約2年で終了。直後、道営圃場整備事業が始まり、旧役場庁舎内に事業センターが開設され町職員、農協職員、土地改良区職員による工事担当、換地担当など約20名で組織されましたが本当に大変な事業でした。事業センターも数年で解散し、それぞれの出身職場に戻りました。
私は一度も農協本来の仕事の経験はなく迷いましたが、農協青年部、婦人部、若妻会の事務局を担当することができた時が我が人生の最高の出来事でした。当時の青年部は転作作物の開発、農業機械研修センターの有効利用、プロジェクト発表での管内大会、全道大会東北6県大会への出場など積極的な活動が展開されたことが記憶に残っております。婦人部活動では何と言っても貸衣裳事業です。1年間の貸衣装料金は1千万円を超えたことを思い浮べておりますが、婦人部本来の活動に取り組む必要性から、各方面の指導を得てミニトマト、インゲン栽培が始まった。当時の合言葉は「儲かったらハワイ旅行しよう」でした。
今現在もその人たちに時々お会いすることがありますが、笑顔で挨拶できる幸せを感じているこの頃です。
特に造田事業が山間地帯を中心にブルトーザーが20台くらい入り、積極的に進められていた。その中で一番の思い出は、山間地帯の測量中に、熊に出会ったことでした。あまりの驚きに足が震え、逃げることもできませんでしたが熊も各方面から追われており熊の方から逃げて行きました。この出来事が頭から離れません。秋は暗渠排水事業、冬は馬そり客土事業など、当麻町内の各地区の水田を飛び回っておりました。
昭和45年8月には、集中豪雨による激甚災害が発生、旧役場庁舎の前にあった娯楽館に役場の土木課、農協の土地改良係が集まり災害復旧事業を約2年で終了。直後、道営圃場整備事業が始まり、旧役場庁舎内に事業センターが開設され町職員、農協職員、土地改良区職員による工事担当、換地担当など約20名で組織されましたが本当に大変な事業でした。事業センターも数年で解散し、それぞれの出身職場に戻りました。
私は一度も農協本来の仕事の経験はなく迷いましたが、農協青年部、婦人部、若妻会の事務局を担当することができた時が我が人生の最高の出来事でした。当時の青年部は転作作物の開発、農業機械研修センターの有効利用、プロジェクト発表での管内大会、全道大会東北6県大会への出場など積極的な活動が展開されたことが記憶に残っております。婦人部活動では何と言っても貸衣裳事業です。1年間の貸衣装料金は1千万円を超えたことを思い浮べておりますが、婦人部本来の活動に取り組む必要性から、各方面の指導を得てミニトマト、インゲン栽培が始まった。当時の合言葉は「儲かったらハワイ旅行しよう」でした。
今現在もその人たちに時々お会いすることがありますが、笑顔で挨拶できる幸せを感じているこの頃です。