「私の春」 梁川 則子さん(5東4)
木々の芽がふくらみ、根雪の下から顔を出す草たち、動き始める虫、天地晴れやかなりし頃、私の大根足の裏の一点がうずく。まるで、我が家の壁をつつくキツツキのよう。そう、うおの目が私に春を告げている。しみじみ生きている実感を味わう時である。なんと愛しいことか。
一九四六年(昭和二十一年)樺太で生まれた私。脚気を患っていた母から生まれた私は「十歳まで生命がもつか、どうか」と産婆さんに告げられ、翌年、「ヒーヒー泣き続ける私を必死に抱いての引き揚げであった」と、成人後、両親から聞いて以来、幼い頃の写真を見るたびに胸が痛む。特に小学校入学式のランドセルを背負った一枚は私の宝物である。父のラシャ地のオーバーを改造し、セーラーカラーのワンピースを仕立てていた母の気持ち、カメラの前で微笑む私を見守る両親の祈るような想いが痛いほど伝わってくる。体育の時間も、運動会も見学の私は、元気に走り回る友達を羨ましげに見、一人空を眺め、歌を口ずさみ、空想の世界で遊ぶ子ども時代であった。
十年の命と言われた私が、結婚、出産、育児、さらに仕事と家庭を両立するという、想像だにしなかったたくさんのおまけつきの六十四年。
かかえきれぬ温もりと励ましを大勢の人たちからいただき、しっかりとこの当麻の大地に立っている。
溢れる感謝をどう伝えていったら良いのか、生命の重みをどう語っていこうかと、今日も美味しい空気を身体ごと吸って考える。
敬愛する三好睦範さんからのバトンを、五月の友人に。人と人とのつながりがうれしい当麻の街で。
(2010年4月号・広報とうま掲載文より・第42回エッセー)
一九四六年(昭和二十一年)樺太で生まれた私。脚気を患っていた母から生まれた私は「十歳まで生命がもつか、どうか」と産婆さんに告げられ、翌年、「ヒーヒー泣き続ける私を必死に抱いての引き揚げであった」と、成人後、両親から聞いて以来、幼い頃の写真を見るたびに胸が痛む。特に小学校入学式のランドセルを背負った一枚は私の宝物である。父のラシャ地のオーバーを改造し、セーラーカラーのワンピースを仕立てていた母の気持ち、カメラの前で微笑む私を見守る両親の祈るような想いが痛いほど伝わってくる。体育の時間も、運動会も見学の私は、元気に走り回る友達を羨ましげに見、一人空を眺め、歌を口ずさみ、空想の世界で遊ぶ子ども時代であった。
十年の命と言われた私が、結婚、出産、育児、さらに仕事と家庭を両立するという、想像だにしなかったたくさんのおまけつきの六十四年。
かかえきれぬ温もりと励ましを大勢の人たちからいただき、しっかりとこの当麻の大地に立っている。
溢れる感謝をどう伝えていったら良いのか、生命の重みをどう語っていこうかと、今日も美味しい空気を身体ごと吸って考える。
敬愛する三好睦範さんからのバトンを、五月の友人に。人と人とのつながりがうれしい当麻の街で。
(2010年4月号・広報とうま掲載文より・第42回エッセー)