「私の先生」 荒川 奈津子 さん (4西3)
小さな女の子が街で出会う八百屋さんや魚屋さん、外国人観光客、はたまたお昼寝中の猫までも「わたしのそばには先生がいっぱい」というテレビCMがある。
なるほど。確かに私のそばにも先生がいっぱいいる。知らないことや知りたいこと、わからないことを教えてくれる先生。なかなか真似できないが、あやかりたい先生。数え上げるとキリがないほどだ。
そのたくさんの先生の中でも、十年以上前から秘かに「心の師」と尊敬している人がいる。Iさんである。
学校関係の送別会に参加した時のこと。私は離任される先生とはほとんど関わりがなかったので、何の感慨もなくただ座っていた。その時、送る側の代表として挨拶したのがIさんだった。
気がつけばIさんの話にすっかり引き込まれていた。会場は拍手喝采だった。Iさんの言葉は、挨拶慣れした人のように滑らかではない。しかし、何とも言えない味わいがあり、聞く気のない者の耳まで釘付けにしてしまう不思議な力があるのだ。
離任される先生が、この土地でどんなに地域の人達に溶け込み親しんできたのか、また飾らないその人柄や思い出話に笑いを交え、訥々(とつとつ)と語ってくれた。Iさんの優しい人柄がにじみ出た温かい挨拶は、先生への最高の餞別となったに違いない。
私はその時から、彼を勝手に「挨拶の師」と決めた。まだまだ足元にも及ばないが、人前で話す時は「背伸びせず、自分の言葉で」を心掛けている。
その成果か、ある講演会で謝辞を述べた時、講師の方に「取り繕った型通りの言葉より、素直な感想が聞けてとても嬉しかったです」と言っていただいた。
今でもIさんの挨拶を思い出すと、思い出のVTRが流れていたような錯覚を起こすのである。
(2015年2月号・広報とうま掲載文より・第84回エッセー)
なるほど。確かに私のそばにも先生がいっぱいいる。知らないことや知りたいこと、わからないことを教えてくれる先生。なかなか真似できないが、あやかりたい先生。数え上げるとキリがないほどだ。
そのたくさんの先生の中でも、十年以上前から秘かに「心の師」と尊敬している人がいる。Iさんである。
学校関係の送別会に参加した時のこと。私は離任される先生とはほとんど関わりがなかったので、何の感慨もなくただ座っていた。その時、送る側の代表として挨拶したのがIさんだった。
気がつけばIさんの話にすっかり引き込まれていた。会場は拍手喝采だった。Iさんの言葉は、挨拶慣れした人のように滑らかではない。しかし、何とも言えない味わいがあり、聞く気のない者の耳まで釘付けにしてしまう不思議な力があるのだ。
離任される先生が、この土地でどんなに地域の人達に溶け込み親しんできたのか、また飾らないその人柄や思い出話に笑いを交え、訥々(とつとつ)と語ってくれた。Iさんの優しい人柄がにじみ出た温かい挨拶は、先生への最高の餞別となったに違いない。
私はその時から、彼を勝手に「挨拶の師」と決めた。まだまだ足元にも及ばないが、人前で話す時は「背伸びせず、自分の言葉で」を心掛けている。
その成果か、ある講演会で謝辞を述べた時、講師の方に「取り繕った型通りの言葉より、素直な感想が聞けてとても嬉しかったです」と言っていただいた。
今でもIさんの挨拶を思い出すと、思い出のVTRが流れていたような錯覚を起こすのである。
(2015年2月号・広報とうま掲載文より・第84回エッセー)