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「今年で16年」 木村 直幸 (中央1区)
実は私、当麻町出身ではないんです!(嫁は当麻出身!!)嫁に言わせると、自分よりも私の方が町民らしいと言いますが、いろいろ大変なんですよ〜。
地理くらいは農協の資材配送していたので、嫁よりは詳しいですが、やはり私の名前だと宅配の荷物が届かなかったり、近頃で言うところの〝お笑いの陣内さん〞みたいでした。「○○さんの旦那さんって」…
何かにつけて嫁の名前が前にくるわけです。
でもそれを分かっていて、私から当麻に来たんですから何も言えないですが、これほどとは…(笑)。まだ、私の苗字知らない人いるんじゃないかな〜。
当麻に来たのはですね、初めての子どもがダメになったことがきっかけなんです。そのころ、札幌に住んでいたのですが、すごく辛くって…。ここでは子どもは育たない!って勝手に思いまして、ちゃっちゃと会社辞めて当麻にGO!です。仕事も決まってないのに…若かったなぁ〜。おかげで、4年の間に2人も子どもに恵まれました。
その子たちも15歳と12歳。個性的ですが、いい子たちです!子どもたちのおかげで、PTA活動での友達もできたし、飲み仲間も…。
当麻最高です!PTA活動もあと少しで終わりですが、町民としてずーっと、子どもたちを見守りたいです。町の宝ものですから…。
当麻町民暦も今年で16年!まだまだですが、当麻で家族仲良く生活できてとても良かった…と思います。
(2008年2月号・広報とうま掲載文より・第18回エッセー)
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「我が挑戦尽きることなし」 長谷川 浩保(4条東2丁目)
「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」と松尾芭蕉も言っておりますが、漫然と日々過ごしていても馬齢を重ねてゆくものです。
かくいう私もあとわずか数年で、而知天命(じちてんめい)という年齢に達すというのに、生来好奇心旺盛な私は新たな事に挑戦するのが大好きです。
今年一番の挑戦は浅学菲才(せんがくひさい)の身を省みず30有余年の歴史を誇る長寿クイズ番組の『アタック25』に挑戦しました。運よく北海道予選をクリアーし、またまた僥倖(ぎょうこう)に恵まれ番組出場となりました。
司会の児玉清さんは73歳には見えないほど若々しくウイットのきいた洒脱な方で、放送ではカットされていますがジョークを交え常に出演者を和ませていただきました。
番組内規により一度出演すると以後5年間出演できないそうで、最後にスタジオを後にする時握手しながら『5年後にリベンジに来ます』と私が言うと、児玉さんは『長谷川さん私あと5年持たないよ〜』とウインクしながら笑顔で答えてくれました。
また、記念撮影をお願いすると『せっかくだからアタックチャンスのポーズで撮りましょう』と言っていただきました。テレビ出演という得がたい体験。このことは、生涯忘れない思い出となりました。
これからは身体の衰えは如何ともしがたいですが、いろいろなことに挑戦していきたくさんの事柄・新しい人との出会いを通じて若々しい精神を保ちたいと思います。
挑戦により身体および心に傷を負うこともままありますが『死ぬこと以外はかすり傷』の精神で、挑み続けていきたいと思います。
『我が挑戦尽きることなし』
(2008年新春号・広報とうま掲載文より・第17回エッセー)
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「感謝の気持ち」 今成 優仁(4条東4丁目)
生まれ育った当麻町に後継者として帰る事を決意したのは、4年前のちょうど今頃です。
高校を卒業し、大学時代を青森県八戸市で過ごし、サラリーマンになってからは北見市と、約17年間ふるさとを離れて生活していました。早いもので、丸3年の月日が経ちます。
当麻に戻り1カ月ほど経った頃、サラリーマン時代お世話になったある社長さんから電話を頂きました。その社長さんは父と同じ年頃、息子さんは私と同じ年頃で、後継者として帰って来る気配はなく、以前の私と似た状況だったのです。迷惑ばかり掛けていたので、余程心配で電話を掛けてくれたのでしょうね。電話の最後に「家族はもちろん多くの人に支えられているのだよ。いつの時も、感謝の気持ちを忘れてはいけないよ」と言われました。
その頃、多くの方に「帰って来たのか、がんばれよ」などと、声を掛けてもらい、その度に、ふるさとに戻って来て良かったなと実感していました。
この3年間、先輩や友人をはじめ多くの方に支えられていること、商工会や各団体での活動を通じての出会いや有意義な時間を共有できることに感謝しています。また、豊かな自然に囲まれ、おいしい農産物を食せるふるさと当麻町で生活できることに感謝しています。そして、家族にも。
これからの人生には、楽しいこと、辛いこと、さまざまなことがあるでしょうが、電話をくれたあの社長の言葉、「感謝の気持ち」を忘れずにいたいと思います。
そして、2人の娘にも「感謝の気持ち」を忘れずに、成長してほしいと思います。
(2007年11月号・広報とうま掲載文より・第16回エッセー)
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「豊かさとは」 深谷 俊文(4条南3丁目)
秋も深まり、この号が出る頃には新米も口にできている頃でしょうか。
四季折々楽しみはありますが、その筆頭は「食」。特に当麻の豊かな農産物の出来秋には胸が躍ります。仕事中におすそ分けを頂くことも度々。新鮮だし、食べ方も教えてもらえるし、なにより作ってる人が知人ですからね。絶対に美味しいのです。
個人差はあると思いますが、当麻に住んでいると痩せる暇がありません。まさに嬉しい悲鳴です。私に限っての話ですけどね(笑)。これらは、「お金を出して美味しいものを買う・食べる」という豊かさではなく、そこで生活し、地域でのお付き合いをして得られる貴重な豊かさだと思います。
また、今年は町内のソフトボール戦に商工会チームとして参加。仲間と一緒にとても豊かな時間を過ごしました。フライが上がれば、「声出せ!怪我すんぞ!」などと互いを思いやってプレーしているのですが、数名の大きい怪我から小さな怪我、極度の疲労による途中交代劇も。
試合中に足を捻ってしまい、脂汗をかきベンチにうな垂れるキャップ。心配する球団オーナーに、野次ってる外野などなど。来年は仕事に支障のないよう楽しみましょうね(笑)。
雨の中の特訓、真剣ながらも笑い声の絶えなかった試合。熱が入りすぎていたのか、全日程が終わると燃え尽き症候群になっている仲間を多数見かけました。よっぽど楽しかったんでしょう。実は私もその中の一人です。
物質的ではない豊かさに気付き、当麻で生活できることの幸せ・・・。旬な美味しい野菜を食べて、できればずっとソフトボールがしたいです。
これからも地域活動や討論など、自分を高めできるだけたくさんの人たちと豊かな時間を共有できるように、感謝の気持ちを忘れず生きていきたいです。
(2007年10月号・広報とうま掲載文より・第15回エッセー)
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「孫娘」 宮崎 亮(伊香牛2区)
今日は待ちに待っていた孫娘が、東京からお墓参りがてらやって来る日である。
旭川空港11時20分着と電話があったので、朝早くからトマトを穫り選果作業をする。10時には作業を終え家に入ると、ばあちゃん(家内)が昼食用にでもと3人分のおむすびを握っていた。早速仕度を替え、車で飛行場へと向かった。
小学生の頃から、お盆と正月休みには必ず我が家に遊びに来ていたが、昨年は高校受験があるからとのことで、1年半ほど会っていなかった。今年の5月に高校入学記念の写真を送ってくれたので、一番目のつく所に置き毎日の健康と、安全を願っていたのである。
10時40分には空港に着き休んでいると、館内放送で孫娘の乗る便が、他の便の都合で30分遅れるとの放送が流れた。仕方がないので車に戻っておにぎりを食べながら、孫娘の話をばあちゃんとしながら時間稼ぎをした。
人を待つ時間は本当に長く感じるものだ。1時間ほど待ってやっと到着の放送が流れた。気がせいているのか、つい出口の窓のそばに立っている。ばあちゃんも一緒だ。
出口の扉が開いて乗客が降りてくる。一人残らず確認する。まだ来ない、来ない。とうとう最後になっても出て来ない。おかしいと思っていると、ばあちゃんが「あの娘さんでない?」と指を指す。荷物受取の券を探している若い女性は、今風の服装にサンダル姿。私の頭の中にある高校生になった孫娘とは全然イメージが違い、ビックリした。
その日の夜、焼肉をしながら談笑し、再会を喜んでいると、孫娘が一言。「じいちゃん腰曲がったね。無理しないで長生きしてネ!」。そんな気遣いの言葉に、孫娘の確かな成長を感じ、思わず笑みがこぼれた。
(2007年9月号・広報とうま掲載文より・第14回エッセー)
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「歩きながら」 堀 玲子(北星2区)
冬の半年間は、体を動かすことが少ないので畑仕事が始まるといたるところが痛み出してきます。膝・足首・肩など毎年のこと。そこで朝か夕方に30分位と時間は短かいのですが、歩くことにしています。
コースはいつも同じで、2-3カ月も続けると痛みは少しずつ和らいでいきます。春の早朝は野鳥の声がよく通り、うぐいすが楓の枝先に止まりしきりに鳴いていました。気づかれないようにそおっと近づいてみると、小刻みに羽根をふるわせ鳴こうとするのですが、どうしても途中で躓(つまず)いてしまうのです。「今度こそ、もう一度」と懸命の発声練習?の様子でした。
その後いつものところからよく整った鳴き声が聞こえてきましたが、木の葉が繁り姿を見つけることはできませんでした。
六月は、どこの家の庭にも色とりどりの花が咲き揃い、本当にきれいです。たくさんのコンテナが段に並べられ植え込まれた彩りのきれいさには、立ち止まって見とれてしまいます。よく手入れをされているのでしょう。蕗を採り、ミツバを刈り、アスパラを折ったりの我が家の庭がなんとも淋しくなります。
コースの途中に緩かな登り坂があります。そこで小休止。膝の屈伸、足首回しアキレス腱のばし、目を閉じての片足立ちには思わず笑ってしまいます。思うようにはいかないものですね。
健康のためにと始めた散歩ですが、折々に変わっていく周りの景色や野鳥の声が、ひとり歩きを楽しませてくれています。
(2007年8月号・広報とうま掲載文より・第13回エッセー)
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「思いつくままに〜環境と俳句」 後藤 祐夫(北星1区)
最近、地球の温暖化とか異常気象とかの言葉をよく見たり、耳にすることが多くなりました。ただ、大きなくくりなので、あまり実感がありません。
四季の移り変わりがひと昔とは違ってきている気がします。今冬は雪が例年に比べて少なかったと感じました。
「地の涯(はて)に幸せありと来しが雪」 源二
大雪と猛吹雪に悩まされたのは遠い昔のことと感じます。雪が少なかったわりには融雪後に雪が降り、農作業は例年に変わりなく始まりましたが、春を告げる鳥、郭公(かっこう)が現れるのは遅かったようです。
「閑古鳥(かんこどり)種蒔(ま)け蒔けよと囃(はや)しおり」 祐夫
郭公が鳴いたら何を蒔いても良いとの言い伝えがありますが、今年は春先の風の強さ、特に北風が止むことなく吹いたりで、鳥たちも戸惑ったのでしょうか。
雲雀(ひばり)の鳴き声はまだ聞いていません。鳥や昆虫、植物などは気象の変化に敏感に反応しているみたいです。でもタンポポは例外なのか、もう花が散り綿毛(種)を飛ばしているものもあります。
「タンポポや日はいつまでも大空に」 汀女
農作業の機械化によって、馬が田に入っている姿は見られなくなりました。馬糞風がなくなり、環境の面からは良いことですが、馬がいる風情や情緒も失ってしまいました。
「馬が減りつづけ老いゆく青山河」 農人
農村の生活の変遷や農家の多様化、作業の変化などと併せて現役の若い世代の人たちの価値観の相違もあり、取り残されていく自分がいます。
全てが近代化になり、合理化されていく中にあって、やがて誰からも忘れ去られ、廃(すた)れてしまう物事を懐かしむのは、私だけでしょうか。
「自分史の終章に置く秋の蝶」 祐夫
※源二・汀女・農人は著名な歌人の名。
(2007年7月号・広報とうま掲載文より・第12回エッセー)
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「老人の独り言」 藤原 雅(4条東3丁目)
私は大正12年に当麻町に生まれ、小学3年生のときに移民として南米ブラジル国サンパウロ州に移住し、コーヒー園の手入れ、収穫に従事。その後、綿花を栽培するために原地の人を雇い、原始林を伐採して植え付けから収穫まで手作業で行いました。
当時のブラジルは義務教育も徹していない時代。私は読み書きのできない現地の子どもたちに、ポルトガル語での名前のつづりなどを教えたこともありました。
昭和14年5月26日、帰国のためサントス港を出港し、50日間の船旅で7月17日に横浜港に到着。故郷の当麻町に定住し父は当麻農協に勤め、私は苫小牧工業学校を卒業後に旧国鉄旭川保線区に就職し技術係に配属されました。
旭川上川と汽車通勤を18年、昭和38年2月朱鞠内線路分区長に2カ年余の在勤でしたが、厳寒と豪雪に加えて大火に遭い、官舎が駅から約500mほど離れていたおかげて身に危険が及ばなかったことは幸いでした。
その後、音威子府、中湧別、名寄、浜頓別支区に勤務し再び上川へ。作業員約70名で長く暗い石北トンネル延長約4㎞内でレールの溶接工事を行い、1本のレールを200mごとに伸ばしていきました。
昭和51年4月に旭鉄局施設部へ異動となりワイシャツにネクタイ姿で勤務。管内八保線区や北海道総局東京本社などとの電話対応に追われ現場と違った体験をし、昭和53年4月、満55歳で定年退職を迎えました。
旭川市や町内建設会社で約10年勤務後、町内会や文化連盟に役員として携わり、また、イチイ学園に入り学園歌の作詞に取り組みました。今後も末永く歌われるものと満足しています。
ボロを着てボロ家に住んでいますが、健康はお金で買えない宝物と亥年生まれ84歳の老人です。
『亥年を七回迎えし春光る』 雅志
(2007年6月号・広報とうま掲載文より・第11回エッセー)
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「生涯の方角」 後藤信子(4条東3丁目)
西暦2007年、新春の慶びを満たすべく、下駄箱の上に年の暮れに活けた南天の朱い実、清々しく元旦の光に静かな空間を穏やかに差し込んでいた。20年前、登録を済ませ当麻町民となったあの日あの頃が、懐しく思い出される。
青春のあのうら若き頃、易者に、将来3人の男性が貴女の前に現れても、その3人の男性とはそれぞれ死別すると予言されたのである。以来、職業を身に独身を守り生涯を過ごそうと、心に決めていた。しかし、転職をし旭川での独り暮らしが、脆くもその決心を取り消して、選んだ結婚の道であった。
理想を抱きつつ子宝には恵まれなく絶望を覚えた一時、ひさびさに友等と祭の夜店を散策中に、手相に関心を示したその時、「お医者の奥方でしょう」と顔を見据え「現在地より東の方角に幸せが見える」とお医者の奥方でもない私に、何を意味するのか、知るよしもなかった。その後、夫は看病の甲斐もむなしくこの世を去った。
独りの生活が戻っていた5月の連休のある日、留守の玄関に、何方からかの山菜が置かれていた。食味した後、電話があり判明。それは亡き夫の友人で、将棋の友でもあった、今日現在、ともに暮らし過ごしている夫であった。
生まれ育つ頃は戦争一色に塗りつぶされた時代。今日に至るまでの自身の生い立ちと、当麻町の発展の歩みを重ね合わせ、生涯方角の東、知るよしもなかったこの当麻町で、楽しく過ごしていけると信じている。
(2007年5月号・広報とうま掲載文より・第10回エッセー)
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「旅 路」 松浦儀江(開明2区)
青春時代はよく旅をしていた。
一人で、または友達と、仕事仲間と、旅はきまって土曜から日曜の予定。土曜の夜に乗る夜行列車での旅は格別のものがある。
早朝目的地に着き午前中に散策した後、ご当地の食事に舌鼓。そして何より、地元住民との会話も楽しみの一つである。
そうこうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、列車に乗り帰路へ就こうとするが、気付けば別ルートに乗り継ぎ、旅を延長。夜には戻れるようにと思いつつ、四季折々の景色を楽しんでいた。
ささやかな旅ではあったが、それなりの満足感に浸るのも、旅の計画を立てるのも楽しみだった。
結婚し3人の子どもを育て、旅は27年おあづけ。しかし、あの頃の自分と重ねあわせているのか、常に子どもたちには旅をしなさいと言っている。
その中の一人娘は、意味は違うが旅をしている。バイアスロンの選手として、年間3カ月ほどヨーロッパ各地を転戦。そんな過酷な旅を3年ほど続けている。
私は現地まで見に行くことはできないが、娘の旅の話を聞き、心の旅路をひそやかに楽しんでいる。
※松浦さんの長女、恵美さんは、今年のアジア冬季競技大会に日本代表としてバイアスロンリレーに出場し銅メダルを獲得。次期オリンピック出場が期待されています。
(2007年4月号・広報とうま掲載文より・第9回エッセー)
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「息子の成長に思う」 石川英樹(宇園別1区・旭大高クロスカントリー部顧問)
謙虚に力強く生きてほしいと願い、名付けた名前が一人息子の『謙太郎』である。
仕事の関係上、冬期間の出張が多く、妻の実家である東京で産声を上げ、生後2カ月後に私と初めて顔を合わせたことは今でも鮮明な記憶として残っている。あれから13年の歳月がアッという間に過ぎ、今年中学校に入学した。
今まで息子に対し、父親として何をしてあげられたか?と思うと、胸が痛い想いであるが、してあげられなかった分、逆に父親の背中を見られてきたとも思う。
夏はバスケットボールに冬はクロカンスキー、そして学業と子どもながらに忙しい日々を過ごしているが唯一、息子に対して言っていることは『言われることが嫌であれば、目標を立て、計画し、時間を作って行動しなさい。昨日と同じことしかしない者は、昨日と同じ物しか手に入らない』と。
今ちょうど長野県野沢温泉村で全国中学大会出場に向けた調整合宿に入っているが、今年の目標としてまず全国大会に出場し、自分がどれくらいのレベルにあるか確認したいと言っていたことがそのとおりとなり、私としても目標としていたことが実現し、この上ない喜びを実感している。そして2年生ではその差を縮めるためにしっかりと練習して全国入賞を果たし、3年生では全国優勝したいとの目標を既に持っている。
いろいろな方々のサポートをいただきながら感謝の念を持ちつつ、自らの目標達成に向けて決して妥協しない強い人間になってほしいと心から願いつつ、息子の自立へ向けた成長を今後も見守っていきたいと思う。
(2007年3月号・広報とうま掲載文より・第8回エッセー)
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「おにぎり弁当」 佐々木英美(宇園別1区)
あなたのおにぎりは丸いですか?それとも三角ですか?
私は数年前からボーイスカウトのカブ隊(小学校2年生―5年生)の活動に参加してたくさんの子供たちと接することで、いろいろと楽しい経験をさせてもらっています。
昨年の11月の末に当麻神社にてしめ縄作りに挑戦しました。子供たち同様、私も初めてのことでちゃんと飾れるものができるか不安でした。
神社氏子様たちの手取り足取りのご指導で、子供たちは自分たちでしめ縄を作ることができました。「作ったしめ縄は新年を迎える自分の家の神棚に飾りましょう」と言うと、「おばあちゃんの家の分も作りたい」と、またまた氏子様にお願いして教えていただきながら完成させた子もいました。
ニコニコと誇らしげなその子の笑顔を見ていると「いいねぇその笑顔。そのまま大きくなってほしいなぁ」とほのぼのとする気持ちになりました。
その日は午前中にしめ縄作りをした後、お昼からスカウト活動をするので、おにぎり弁当を持参しました。
このおにぎり弁当は、何個でもどんな形でも大きさでもいいので、必ず自分で作ることになっていて、作ったことがない子は家族に教えてもらい挑戦します。
しめ縄作りで体力を使ったのか、私も子供もおなかがペコペコ。手にほのかに残る稲ワラの香り、そしておにぎりの海苔の香りとで食欲は倍増…。小さい、大きい、そして丸かったり三角だったり、ちょっとつぶれていたりでしたが味は抜群。みんな笑顔でおにぎりを味わいました。
今度は自分のためではなく、誰かのためにおにぎり作ってみてね。
(2007年2月号・広報とうま掲載文より・第7回エッセー)
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「私たちができること」 高橋由利子(3条東3丁目)
先日、フリーマーケットに出品する物を探していたところ、我が家では使わない柔軟剤や漂白剤がたくさんあったので出そうと考えていました。しかし、そのことを知人たちに話すと譲ってほしいとのことだったので、全て引き取ってもらいました。以前も同じように出品しようとした時「洗剤だとかは人気商品の一つでまっ先に売れてしまうのよ」と言われ、びっくりしたことを覚えています。
我が家にはアレルギーをもっている子がいて、その子はもちろんのこと、家族にも有害な化学物質の入っているものはなるべく控えるようにしています。他の姉弟に「なぜ家では柔軟剤を使わないの?使うといい香りがするよ」と言われたことがありますが、「わざわざ身体に良くないものを使って人工的な香りを出すより、健康の方が大切よ」と答えました。兄弟のアレルギーを考えたためかそれ以来、何も言わなくなりました。
健康になるための方法を自分なりに勉強し、良いと思われるものは試してみましたが結果、たくさんの良いものが必要なのではなく、悪いものを体に入れないことの方が大切なのではないかと気付きました。スーパーに行くと食料品コーナーでは表示を見ながら買い物をされている方も多くなり、産地や農薬を気にして選ぶようになりました。しかし、日用品売り場で成分を見ながら買う人はまだ少ないと思います。
地球環境を守ることと健康な身体は、子どもたちの未来にとって一生の財産です。買い物をする時にふと、何が本当に必要なのかを考えてみる。私たちにできることは、そんなささいなことからなのだと思います。
(2007年新春号・広報とうま掲載文より・第6回エッセー)
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「幸せな時間」 古川詠子(4条西3丁目)
このリレーエッセーのお話をいただいた時「あー無理かな…」と正直感じました。しかし、今年6月に生きるエネルギーいっぱいの中村文昭さんの公演を聞かせていただきました。その時の言葉が、頭を過ぎり単純な私は、「はい」と返事をしていました。
その言葉とは、「頼まれごとは、試されごと」「できない理由は言うな」書いてみよう…今の私の気持ちを…。
今、私は在宅で母の病気と共に幸せな時を過ごしています。食事・洗濯・掃除と、日常の得意分野ができずに歯がゆい思いをしている母を横目に見ながら娘である私は、いろいろな想いを感じています。
生まれてまず出会うのは、親。どんな生き方をしているのか、どんなことに喜び、悲しみ、笑うのか、言葉ではなくても毎日の生活の中で良いことも悪いことも吸収してしまうのですね。病気をきっかけに、普段は気付かない価値観・幸福感・料理の味付けにいたるまでたくさんの影響を受けていました。ジャガイモを煮ても、コロッケやお寿司を作っていても「あの味(母の味)になって!」と口走ってる自分がいます。
子供の頃、どんな失敗をしても、うれしい事も帰って話せる場所。一番の味方となって、いつも変わらぬ家庭・幸福感を与え続けていてくれました。今は、少しだけ親孝行かな…病気と戦っている母の傍にいられる事は、幸せな時間なのです。
病気に負けず、あきらめず、毎日を大切に過ごしていこうね。このエッセーを読む頃は、もりもりと秋の味覚を楽しめますように…。
※ご家族の思いも通じず残念ながら、古川様のお母様は11月2日にご逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
(平成18年11月号・広報とうま掲載文より・第5回エッセー)
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「ふる里」 山本利之(4条南3丁目)
私は後継者として学校を卒業後、当麻町へ帰ってきて30数年になります。
この町に根を下ろし、今まで商売を続けてきましたが、たくさんの先輩や友人に助けられ、支えてもらいながらやってきました。災害も少なく、豊かな自然に囲まれた町で、多くの人たちとの繋がりを持ちながら生活してこられたことに幸福を感じます。
我々商工業者も後継者問題など、全盛期に比べると3分の1ほどに件数も減り寂しさを感じていましたが、近年「後継者」が増え、さらに、町外から商売を始める若者が増えてきていることはうれしい限りです。
若者が増えると我々の年代も刺激を受け、「まだまだ負けないぞ」という気持ちでがんばっていけます。
先日、当麻中学校時代の同期会が開かれ、道内外から70名程度が集まりました。30年ぶりにふる里に帰ってきたという人もいましたが50歳を過ぎ、もう数年で定年退職という年代。子ども時代、秋の収穫の手伝いが大変だったこと、収穫の終わった田んぼで遊んだことなど、昔を懐かしんで夜遅くまで語り明かしました。また、少子化が進み町内の小学校が閉校になることはショックだという話もありましたが、これが今の当麻町の現実です。
当麻町の農家の皆さんが大変な苦労をして「でんすけすいか」「良食味米産地7年連続全道一」「バラ・キクの全道有数の産地」と当麻の名を全国へと有名にしてくれています。
我々も農家の皆さんに負けないようにがんばり、農業、商工業者がともに元気に町を盛り立てていく。豊かな大地と、子どもからお年寄りまでが安心して暮らせる「ふる里当麻町」を守り続けていく責任が、我々にはあるのではないでしょうか。
(平成18年10月号・広報とうま掲載文より・第4回エッセー)
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「我がふるさと」 宮嶋敏一(伊香牛1区)
最近よく思う事は「当麻で生れて本当に良かった。この地で生を受けて良かった…」。そう思います。
少し年を重ねたせいなのでしょうか。若い頃は、仕事も遊びも一生懸命で振り返る余裕もなかったような気がします。組織活動を通じ、先輩方から仲間の大切さ、人としてのあるべき道、いろいろなことを教わりました。
そんな中から生れたのが、でんすけすいかでした。23年の時がたち、今年は全国表彰(日本農業賞大賞)をもいただき名実ともに当麻の顔「でんすけすいか」になったのです。
休耕制度の名のもとに、素人の者がプロの野菜農家の仲間の指導を受け、夢と希望をもってスタートした一品だったのです。
米においては、7年連続北海道一に輝き、10年連続の目標も必ず達成できると確信しています。
しかし、ここで忘れてならないのは屯田としてこの地に入植し、日々たゆまぬ努力を惜しまなかった先人達。今百余年の時を刻み肥沃な大地を築いてこれたからこそできた事なのです。
ですが、この大地も来年度から始まる農政の大転換により危うくなってきています。担い手といわれる若者達の減少、後継者不足、高齢化等々…。我が町においても現在の農家戸数は将来半数ぐらいになるでしょう。でも私達には、先人から受け継いだ大地を守っていく義務があります。
今までの数々の実績を糧に、息子達孫達が引き継ぎ、守り、もっともっとすばらしい農村、そして当麻町を築いてくれる事でしょう。
(平成18年9月号・広報とうま掲載文より・第3回エッセー)
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「ピラミッド石工の落書」 小倉正夫(開明3区)
当麻には「米」「でんすけすいか」「きゅうり」「とまと」「菊」「カーネーション」「バラ」と売れる商材がたくさんあります。それぞれの生産者、団体、農協、町が一丸となり大変な努力の上に今日があります。
明治の頃、屯田としてこの地に入植した人々は最初禁止されていた米を作り、今日の穀倉地帯の礎を築きました。私たちが「今どきの若者」だった頃、「でんすけすいか」や「バラ」を産業となるまでにやってこれた背景を考えてみました。若者集団が自由に意見を言い、それを良しとする風土がありました。新しい事への無謀とも言える挑戦。そんな勇気が脈々と受け継がれていたのだと思います。
当麻町は明治の入植、昭和の戦後開拓と二回の新規就農者の受け入れを経験していますが、今、若者の集団が先細りの状態にあります。第三の波を必要としているのではないでしょうか。今の当麻の産物を最強の武器にして広くアピールし「当麻で農業をやりたい」という若者を集める。そんな事はできないでしょうか。後継者だけでは絶対数が足りないのですから。
これだけの産物を我々の世代だけで終わらせるのはもったいない。今「なぜ当麻だけがこんなに元気なのか?」という疑問の声が上がっています。やる気のある若者たちが次代を担っていける体制づくりがあるのなら「あの当麻なら当然」という答になるのだと思います。若者たちは次に何に挑戦するのでしょうか。
エジプトの遺跡の中にピラミッドを作る石工の集団がいたらしい所の壁に「今どきの若者ときたら」という落書があったそうです。何千年も前から人の世はあまり変わっていないのだなと思います。「今どきの若者」がいないと次代は続いていかないのです。
(平成18年8月号・広報とうま掲載文より・第2回エッセー)
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「大好きです。けど…」 白鳥八代子(伊香牛2区)
温もりを分けた掌(てのひら)から身を翻し、そよ風に吹かれるように、ひらりと去って行った。
「また、そっぽむかれちゃった」。気持ちに添わないことなのに、すぐ諦めのこころが芽生え、ひょうひょうと見送る。今に始ったことではないけれど-。
すると、頭の上から、「それだから駄目なのよ、もっと知恵を働かせて、真剣に縋(すが)りついて行かなきゃ」。その声がだんだん大きくなって耳元に伝わってくる。
「だって仕方ないでしょ、好かれていないんだから」と、言い返すのが精いっぱい。
どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、おあし(※)からの好感度はいまひとつ。だが、あまり深刻に考えることなく、長年付き合ってこれたのは、のんびり育ててくれた、親兄姉のおかげだと、改めて感謝している。
私にとって、休耕制度が実施されるまでは、体当たりで作物を育て、雑草と戦い自然と触れ合ってきた。その後、さまざまな仕事を通じて、その体験が無駄でなかったと実感できたことが、最大の財産となっている。
近ごろは、お金と健康が、肩を並べる世の中になってしまった。最良の道ではあるけれど、欲望を、スピーディーに満たしてくれるお金に、身もこころも切り裂かれていないだろうか。
「あなたは、経済観念に乏しいから、そんな呑気なことを言っていられるのよ」と、叱られてしまいそうだが―。でも、健康と向き合ってこそ、その価値が生かされるのだと思っている。
もちろん、私もお金は大好き。けど、「お願いだから、温もりを忘れないで戻ってきてくださいね」。そして、健康と肩を並べてゆっくり歩いていきたい。
※おあし・・・お金
(平成18年7月号・広報とうま掲載文より・第1回エッセー)
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