日高晤郎さんとのお別れ(平成30年5月号掲載)

 4月3日、総会後の懇談会も終わりを遂げようとしていたとき、JA職員から「日高晤郎さんが死去された」との一報をいただいた。
 あまりにも突然のことですぐ受け入れることができなかったが、“やはり”という気持ちも心の中で交差していた。最終出演となった3月24日、常々語られていた「死ぬ時はマイクの前で」の言葉どおり、声を振り絞るように語られた9時間であった。「6日間、辛いことがあっても俺を思い出して泣くのはやめて」、「それが俺にとって最高の良薬だから」、一言一言が遺言のように思えてならない。
 エンディング前の午後4時30分頃からは、リスナーに対し涙ながらに話す晤郎さんに病の重さを感じ取ることができた。
 しかし、“あの晤郎さんだから病に負けるはずがない”と、自らに言い聞かせたファンもたくさんいたはずである。夕刻、悲報を伝えるテレビ、新聞を見て、その死を事実として認めざるを得なかった。
 思い起こせば、私は晤郎さんに大変かわいがっていただいた一人だった。
 でんすけすいか・今摺米・バラと随分紹介していただいた。茶化しながら話題にしていただいたでんすけサイダーも、どう紹介すれば聴いていられる方の心に残るのか、晤郎さん一流の気配りでもあった。
 私が時折差し上げた手紙は、必ず電波に乗せて読み上げていただいた。下手な文面も、晤郎さんの話術に掛かるとなぜかうまく聞こえるから不思議なものである。
 ご逝去から4日後、STVホールを会場に、日高晤郎追悼番組-良く笑えた日は佳い一日だ-が取り行われた。お別れの気持ちを整理するため、家内共々参加してきた。
 会場に入りきれない人々でロビーもあふれており、それぞれの思い出を胸に別れを惜しんでいた。
 晤郎さんの74年の生涯が吉川のりおアナウンサーから紹介され、涙より笑顔が似合う人だったが、この日だけは頬が乾くことがない5時間50分だった。同日、テレビでも追悼番組が組まれた。
 でんすけサイダーの旗や、私たちの姿も映し出され、あの時あの場面が懐かしく思い出された。

 奥さまや演歌歌手こおり健太さんらごく近親者に看取れられ、安らかな旅立ちだったと伺う。
 熱烈なファンがいる一方、晤郎さんスタイルを嫌う人もいた。「7割に嫌われても良いんだ。3割に好かれればOKです」、晤郎さんの口癖だった。
 言葉はきついが、相手の立場を思いやり心温かい人だった。
 他人にも自分にも厳しかった晤郎さん。今度は少しゆっくり休んでください。ラジオの一つの時代が終わったようで寂しい。

(平成30年5月号・広報とうま掲載コーナー・第163回随筆)